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HIBIKI column vol.16


最近、「惑う」と言う言葉に駆られて、仏教なるものに興味をもち、勉強中。
これも外国人の友人が増え、自分のナショナリティについて向き合う事が増えたから。
学べば学ぶほど自分の醜さを愛おしく感ず。
何故、私はこんなにも強欲なんだろう。
何故、私は満たされる事がないのだろう。
煩悩塗れの私。渇愛人と言うらしい。
渇愛を滅尽せば悟りの境地、いわゆる涅槃に辿り着く。
渇愛とは煩悩。煩悩とは苦。
苦が無ければ惑いも迷いもなく、それは即ち涅槃にいく道すらもないのかもしくは、すでに此処は悟りの境地なのか。
ここが悟りの境地ならば、涅槃とはなんと色の無いモノクロームな世界なのだろうか?
考えれば考えるほどこの世の果てにきたようで絶望的である。
その絶望と言う苦と色を未だ欲す苦に惑い、そして安堵する。苦とは色。色を貪り、悟りを探す。悟りをみつけ、色を失い涙を流す。
それを幾度となく繰り返して最後に静かに涅槃する。
それが人、凡人の一生ではなかろうか?
即ち、色即是空こそが私の一生。

色にまみれた私の人生。色がなんの役にも立たない事も知ってるけど、色が万能な事も知っている。
ねぇ、私から色を奪って欲しい。
匂いも感覚も思い出さなくなるほど色を制したら、涅槃の域に辿り着くのでしょう?
そしたら、その時私は女王で居られるのかしら?
極楽で天女になっていたりして。
それはそれで楽しいかもね。
ふふふ。煩悩は未だ未だ消せそうにない。
私は一生天女にはなれない。


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